Japan Muslim Association 日本ムスリム協会は、日本における最初のムスリム(イスラーム教徒)団体です。

イスラームとは

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イスラームの信仰

1.信仰の端緒

信仰というものをさとす良い逸話がある。12世紀の偉大なイスラーム学者でファフル・アルディーン・アルラーズィーという人がいた。彼がある日、街の通りを何十人もの弟子に囲まれて歩いていた時のこと、一人の老婆が反対方向からやって来た。そこで弟子の一人が、「おい、そこの道を空けろ、こちらはアッラーに関する千の疑問に答えることのできるお方であるぞ」と告げた。それに対してその老婆は少しもひるまずに、「私は何も分からぬが、でもアッラーには一つも疑問は持っていない」と答えた。それを聞いてアルラーズィーは老婆の前に頭を垂れて、弟子たちに道を空けさせたのである。

心を無にして信じるところに、信心の真髄があると言える。「イワシの頭も信心から」といって、我が国では昔からただひたすら信じることに固有の価値を見出してきた。ただ同時にいろいろ思索を重ねる営みも人に与えられている能力である。またそうすることで一層信心が確かなものになる事もある。

イスラームでは以下のように説かれる。

(1)人の天性(フィトラ)

人には天性があるが、それには空白部分がある。またそれを埋めようとする自然な傾向があるが、その空白部分とは人生とは何か、生きる目的とは、といった科学で答えられないものも含む。これはすなわち、求道の心である。この精神は誤った道ではなく、正しい道を求める気持ちに満ちている。この点は、キリスト教が原罪の償いであり仏教は厭離穢土からの浄土願望が原点にあるとすれば、それらとは趣が異なっている。

人は生まれながらに全員ムスリムであるが、種々の異説がそうでなくさせるという。その根拠は、天性の働きで自然とムスリムであると見るからだ(仏性は誰でも持っているとの見解に近似)。

(2)信仰の定義

真実・真理(ハック)の直観・直覚(イルハーム)とそれへの依拠(タワックル)。換言すれば、絶対主の支配を信じ、自らの言動を信心に即したものとすること。

①「真実」とは宇宙の哲理(人は過ちを犯すものなどの鉄則、その究極は無限の宇宙の全存在とその見事な運営のこと)

②「直覚」するきっかけも様々―ひらめく天性は誰にもあるし、心が熟していれば直覚の機会はいつどこにでもあるとする。

③「依拠」とは従順さ、自らの小ささの認識、主への称賛・嘆願、即ち礼拝すること。

④「信仰のもたらすもの」として、心の安寧(トゥムアニーナ)、正しい道を歩む自信・栄光・誇り、生きがい、同胞心など。そして日常が永劫と連動する。

注:キリスト教―ヘブル書11章1節「信仰とは、望んでいる事柄(キリスト)を確信し、見えない事実を確認すること」、仏教―俱舎論4「信とは心を澄浄ならしむこと」

(3)平穏な心境(サキーナ)

人には不動で平穏な心境も付与される。この平常心が信仰の基盤となりそれを強める。逆に信仰はサキーナを強固なものにするという相互の補完関係がある。

これは動と静を併せ持つ。スタート前のスポーツマンの心持ちに類似。イスラーム史上、多数の実例が預言者伝承に語られる。預言者は幼少の頃、鳥に胸を切り開かれてサキーナが埋め込まれたとの話、苦戦しているところにサキーナが降ろされて戦勝した話など。いわば悟りの心境として語られ、フィトラと並んで信仰上重要な要因である。

2.正しい道を求めて

信心の中軸は万有の絶対主であるアッラーにあるので、それをいかにして明澄に覚知するか、そして絶対である以上単一であることの認識に関する議論が活発である。

(1)アッラーの覚知論(マアリファ)

ア.理知的方法―自然美の嘆賞、忍耐強いことなど入信者はそれまでとは異なること、人生の不可思議さなどに気づく、アッラーを見出す理知的なアプローチ。

イ.感覚的方法―偉大、永遠、最善、最美などアッラーの99の美称を唱えることによって、アッラーの存在を感覚的に看取する方法。

(2)アッラーの単一性(タウヒード)

真実は一つである以上、アッラーが単一であるのは当然の帰結。それ以外の神を並置する試みやその恐れのあるものを排除することも重要。それは精神をふらつかせるものであり、酒、麻薬、偶像、歌舞演曲、魔よけ、星占いや運勢占いなどが上げられる。

3.信心の三段階

イスラームの教科書で、以下のように整理される。

第一には、言動で教義に則ること(イスラームと言われる)。

第二には内心の問題として信仰箇条をしっかり確立し順守すること(イーマーンと呼ばれる)。これが狭義の「信心」と言われている部分である。

第三には、信心に基づきあらゆる善行を積むと同時に、常にアッラーを身近に感じる最も敬虔な段階(イフサーンと称される)。これが最も熟した完成度の高い信心であり、純な篤信のあり方として位置付けられる。

預言者伝承に次のようにある。

「イフサーン(善行)について述べてください。」と問われたのに対し、預言者ムハンマドは答えて言った、「あたかも目前に座すかのようにアッラーを崇めることです。あなたにアッラーのお姿を拝することが出来なくても、アッラーはあなたを見ておいでになるからです。」と。(『日訳 サヒーフ ムスリム』日本ムスリム協会発行、1987年。第1巻、28頁。)

4.信者の精神生活

信仰生活に入ると、その心には新たな規矩がはめられるといえる。新たな価値観ともいえる。以下はその事例である。

(1)慈悲(ラフマ)

アッラーにのみ可能な働きだから、定義は難しいとされる。人はそれを他者に祈るのみ。愛はアッラーに対する敬愛(称賛と嘆願)と人同士の愛情(アッラーの好まれるものを愛すること)があるが、いずれにしても最早動物的なものではない。

(2)生きがい(ハダフ・アルハヤー)

人生に目的が与えられ、日々は善行を積む営みであり、篤信が生きがいとなる。

(3) 幸福(サアーダ)

イスラームで幸福は、富や子沢山ではなく、安寧の心を獲得することとされる。この世の幸福は一時的だが、天国では永久の幸福がある。それは至福(トゥーバ―)という格別の名称で呼ばれる。

(4) 悲しさ(フズン)の克服

一喜一憂しないで、悲しさの裏に恵みを忘れないこと。余りの悲しみは、それまでの恵みを忘れているので、不信の原因となる。「悲しむなかれ(ラー・タハザン)」はクルアーンに頻出する言葉。

(5) 恐怖心(ハウフ)の克服

人は死を怖がるが、最後の審判こそが怖いので、それ以外の恐怖心は抹消される。そして最後の審判があることこそが、絶対の真実であること。

5.倫理道徳上の主要な徳目

いずれの徳目もアッラーへの誓約が軸になり、現世的な対人的な処世訓ではない。

(1)誠実さ(スィドゥク)

アッラーへの誓約における誠実さの人間関係への反映。

(2)正義(アドル)

アッラーは絶対公正であり、不正はアッラーが許されない、そこでこの世の不正を許すことはできない。これは革命の力となる。ただし公正、不正の定義は法律的なものではなく、あくまで道徳的な意味合いであり、不透明さは残る。

(3)忍耐(サブル)

人には是非善悪が分からないことも多いので、性急さを避けるべきである。アッラーに委ねる心境の必要性。逆境もアッラーの定めとして甘受する。

(4)禁欲(ズフドゥ)

義務と禁止の間の自由な領域では、節度が信者の姿勢となる。謙譲の美徳が導き出される。

(5)感謝(シュクル)

自分には多くの恵みが与えられていることを常に忘れない。

(6)悔悟(タウバ)

預言者は日に70回悔悟。その日のうちに早く反省することなど。アッラーも悔悟されるが、その場合は悔悟する信者の許へ戻られるという意味。

6.最後に

信仰に対する最大の報奨は、最後の審判で選ばれて天国行きが可能となること、そこで人の務めは篤信であることであり、人の生涯全体が試練の場であるということになる。だがそれは何も暗い気分のものではなく、沈着冷静ながらも希望と活力に満ちた、真に正しい生活が保たれている状態である。アーダムとハウワー(イブ)も果実を手にして天国を追われるが、激しく悔悟して最後は赦され一緒に巡礼を果たすというのが、イスラームのハッピー・エンディングである。さらにはムスリム同士の親近感や相互扶助の強調なども、短い一生ではあるが生活を充実すべしとの気持ちを支えるものである。自殺は禁止されている。

イスラームにおいて聖職者はいないので、信者一人ひとりが直接に教えの実施とその伝播に責任を感じている。もちろんウラマーと言われる学識者の一群が歴史的に成立してきたし、礼拝の時には礼拝指導者が先導する。しかしそれらに信者と絶対者との間で介在するような立場や役割は与えられていない。存在するのは絶対主と各信者というシンプルな関係であり、各自が絶対主と直接に対峙することとなり、それが日々の礼拝と毎年の巡礼において再演されているということになる。

六信

「六信」の信仰箇条とは、以下の通りです。1)アッラーを信ずること、2)アッラーの諸天使を信ずること、3)アッラーの諸啓典を信ずること、4)アッラーの諸預言者を信ずること、5)来世を信ずること、6)天命を信ずること。

1.アッラーを信ずること

アッラーとは、アラビア語の「イラーフ」(神)に定冠詞「アル」をつけてできた言葉で、唯一絶対神(宇宙の創造主であり全知・全能者)を表わします。

2.アッラーの諸天使を信ずること

天使は、光からつくられ、アッラーに仕える霊的存在で、多数あるが特に主要なものとして、四天使があげられる。

1.ジブリール(ガブリエル):ムハンマドにアッラーの啓示を伝達した。
2.ミーカーイール(ミカエル):海、湖、河川等すべての水にかかわる領域の守護者。
3.イスラーフィール:空気の守譲者で復活の時にラッパを吹くとされている。
4.イズライール:死の天使で、人間が死んだとき魂を身体から取り出す。

3.アッラーの諸啓典を信ずること

啓典とは、アッラーが天使ジブリールを通して人間に示された啓示で、複数あります。中でも特に神聖視されているのが最高啓典である「クルアーン」、次いでムーサー(モーゼ)に与えられた「トーラー」(=五書。『旧約聖書』の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、イエスに与えられた『福音書』(『新約聖書』の「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の四福音書)、ダーウード(ダビデ)に与えられた「詩編」です。

4.アッラーの諸預言者を信ずること

どの民族にも最低一人は預言者が送られたといわれています。「クルアーン」には27人の予言者の名がありますが、特に重要なのは、アーダム(アダム)、ヌーフ(ノア)、イブラヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーゼ)、イーサー(イエス)、そして最後の預言者であるムハンマド(SAW)です。

5.来世を信ずること

イスラームの来世は、仏教で言うところの生まれかわっていく来世ではなく、最後の日がきて、死者がよみがえり、最後の審判を受けた後に行く天国または地獄のことです。

6.天命を信ずること

天命とは、「あらゆる宇宙万象は、アッラーの意志によるものである」というものですが、人間には善悪を選択する自由意志を与えられております。 したがって、自分の善悪の行為にたいしては、責任を負わなければなりません。

五行

聖典と預言者言行録

聖クルアーン

日本ではコーランとよんでいますが、正しくはアル・クルアーン(読誦すべきもの意味)といいます。アラビア語で書かれたイスラーム教の聖典です。
預言者ムハンマドが西暦610年から632年の23年間、アッラーから受けた啓示(神の言葉)を1冊にまとめたもので、114章から成っています。内容は神の唯一性、最後の審判や天国と地獄などといった宗教的事柄から経済や法律など日常生活に関する事柄などが含まれています。
クルアーンはムスリムにとっては生活規範となる憲法的存在であり、第一の法源となっています。現在のクルアーンは、第三代カリフ・ウスマーンが651年に結集したものを正本としています。イスラーム教の聖典はアラビア語の原本が正書とされ、他の言語に翻訳されたものは同格と見なさず、意味の解釈としています。

(お知らせ)

日本ムスリム協会では日本語とアラビア語の対訳クルアーンを販売しております。購入ご希望の方は協会までお問い合わせ下さい。

ハディース

ハディースは「伝承」・「物語」・「話」・「会話」を意味するアラビア語ですが、狭くは預言者ムハンマドの言行、生活態度をまとめた伝承録を意味します。ムスリムは、預言者ムハンマドの生き方を模範とし、日常の指針としてきましたので、ハデイースはクルアーンに次ぐ第二の法源として重要視してきました。
ハディースには複数あり、次の6人の編纂したハディースが正伝とされています。

  • ブハーリー「アッ・サヒーフ」
  • ムスリム「アッ・サヒーフ」
  • アブー・ダーウード「アッ・スナン」
  • ティルミズィー「アル・ジャーミウ」
  • コサーイー「アッ・スナン」
  • イブン・マージャ「アッ・スナン」

以上六書のうち、ブハーリーとムスリムのハディースの二書が最も権威があるとされています。

イスラームの最重要な教えについて次のようなハディース(預言者ムハンマドの伝承)があります。「あなたが亡き後、イスラームに関して誰にも質問する必要のないほどに重要な事項を教えてください」これに対しみ使いは「アッラーを信じます。と唱え、それを固く守っていくことです」といわれた。(サヒーフ・ムスリムより)
信仰の真髄については、次のようなハディースがあります。「信仰の真髄を知った人はだれでも三つの信条を身につけている。アッラーのためのみに人を愛すること、彼にとってアッラーとそのみ使いはだれよりも尊い存在であること、アッラーを信ずるゆえに救われたのであるから不信の徒に戻るよりは業火の中に投げこまれる方をよしとすることである」
真の信仰については、次のようなハディースがあります。「あなた方が自分自身を愛するように、兄弟や隣人を愛するようにならない限り、まことの信仰を持つとはいえません」(サヒーフ・ムスリムより)イスラームの長所について、つぎのようなハディースがあります。私はアッラーのみ使いに「イスラームの何が最も秀れている点ですか」とたずねた。これに関しみ使いはこういわれた、「お互いの言葉と行動によってムスリムたちが守られ、安全である点です」(サヒーフ・ムスリムより)

(お知らせ)

日本ムスリム協会では、「サヒーフムスリム(全3巻)」や「200のハデイース」を販売しています。日亜対訳聖クルアーン同様、購入ご希望の方は協会本部までお問い合わせください。

イスラームQ&A

Q: 日本人でもムスリム(イスラーム教徒)になれますか?

A: 日本人でもムスリム(イスラーム教徒)になれます。

イスラームは日本神道やヒンドゥー教のような民族宗教ではなく普遍宗教です。従って日本人でもムスリムになることは可能です。

ムスリムになるためには先ずアッラーの導きが必要です。アッラーの導きさえあれば誰でもムスリムになることができますが、アッラーの導きがなくては誰もムスリムになることはできません。誰がムスリムであるかは究極的にはアッラーが決め給うことであり人知を越えています。

ムスリムになるとは究極的にはアッラーからムスリムと認知されることであり、それは人間には不可知ですが、他方、ある特定の手続きを経ることによって、イスラーム法上、社会的にはムスリムと認知されます。先ず片親がムスリムであれば子供は自動的にムスリムと認知されます。現代社会の大半のムスリムは、親がムスリムであることにより生まれながらにして自動的にムスリムとされた人々です。

生まれながらにムスリムでない人間がムスリムに「改宗」しようとする場合については、イスラーム法には明確な規定がありません。改宗の問題を最も主題的に論じているのはハナフィー派ですが、ハナフィー派によるとイスラームへの「改宗」の手続きは改宗者の改宗以前の信条により3種類に別れます。

第一に改宗者が無神論者か多神教徒であった場合には、「アッラーの他に神はない」と唱えることでムスリムになったと見做されます。

第二に改宗者が神の唯一性を信じていても預言の存在を信じていなかった場合には、「アッラーの他に神はない」と唱えるだけでは十分でなく、加えて「ムハンマドはアッラーの使徒である」と唱えて初めてムスリムになったと見做されます。

第三に改宗者が神の唯一性も預言の存在も信じているが、ムハンマドがアッラーの使徒であることを否定するユダヤ教徒やキリスト教徒などの場合には、イスラームへの改宗には「アッラーの他に神はない、ムハンマドはアッラーの使徒である」と唱えるだけでは足らず、以前に自分が属した宗教への帰属を否定することが必要とされます。

このようにハナフィー派は改宗者の以前の信条に応じて改宗の手続きを分類しますが、通常はイスラームの証言法に則り、公正な二人のムスリムの証人の前で「アッラー以外に神はないことを私は証言する。ムハンマドはアッラーの使徒であることを我は証言する。」と唱えることによってイスラーム法上、ムスリムと認知されると言われます。

スンナ派では異教徒の入信に際して上記の信仰告白に加えて、天使、経典、最後の審判、天命の4項目とムハンマドが最後の使徒であることの信仰告白を要求するのが普通です。

イスラームへの入信は本来アッラーと個人との関係ですので、特に人間による証明は必要としません。また社会的に認知されるためにも二人の公正なムスリムの証言があれば足ります。しかし現在のイスラーム世界の諸国家ではイスラーム法ではなく、西欧的実定法が施行されているため、婚姻手続きや、マッカ巡礼のビザの申請などに「公認イスラーム機関」の「ムスリム証明書」が求められる場合があります。そうした場合にはイスラーム世界ならアズハル機構や世界イスラーム連盟など、日本国内では神戸モスク、日本ムスリム協会、イスラミックセンター・ジャパンなどの宗教法人が「ムスリム証明書」を発行しています。

ムスリムになるのに特にイスラーム名を貰う必要はありませんが、慣習としてイスラーム名を付けることが多いようです。また現人神、神の子、神の母の僕、などといった明らかにイスラームの教義に反する名前であった場合には改名が義務づけられます。

イスラームは民族宗教ではないため、民族帰属が自動的にイスラームへの帰属を保証する訳ではありません。つまりイスラーム法上、一定の手続きによりムスリムになることが出来るのと同じように、ある種の言動をとったムスリムは、イスラーム法上イスラーム教徒でなくなった、即ち背教したと見做されます。

背教と見做される言動とは「アッラー以外にも神々がいる」などの発言、仏像に額ずいて祈るといった行為など、イスラームの教義に反する言行を指します。

Q: イスラームにはキリスト教の神父や仏教の僧侶のような聖職者はいますか?

A: イスラームには聖職者はいません。

イスラームに聖職者がいない、と言うのには二つの意味があります。

第一にイスラームでは神と人を仲介する特別な階級が存在しないということを意味します。イスラームにおいて人を天国に入れることが出来るのも、罪を許すことが出来るのもアッラーただひとりであり、いかなる人間にもアッラーと人間とを仲介する権限は与えられていません。

第二にイスラームには平信徒を律する戒律とは別に聖職者のみを律する戒律が存在するという形での戒律の二重構造がないことを意味します。イスラーム法は全てのイスラーム教徒に平等に適用されます。礼拝、斎戒、巡礼といった「行」も聖職者のみに課される特別な戒律ではなく、全ての信徒の義務に過ぎません。

イスラームでお布施にあたるものは喜捨ですが、イスラーム法は法定喜捨の受給資格者を(1)極貧者、(2)貧者、(3)喜捨徴税人、(4)新入信者、(5)奴隷(身請けのため)、(6)債務者、(7)アッラーフの道の修道者、(8)旅人の8つのカテゴリーに分けます。7番目のアッラーの道の修道者は第一義的にはジハードに赴く無給の戦士を意味しますが、イスラームの学問に身を捧げた者もアッラーの道の修道者に数えられますので、イスラーム学者に払われる喜捨は坊さんに払うお布施に近いかもしれません。

但し喜捨は上記の8つのカテゴリーのどの受給資格者に支払われても同様に天国での褒賞を受けますので、イスラーム学者に喜捨を施せば特別な功徳があるとの思想はありません。

学識の高い者が尊敬され、その見解が尊重されるのは当然ですが、イスラーム学者には位階制度はありません。イスラームには教皇もいなければ公会議もなく、最終的に教義を決定する制度は存在しません。

イスラームの教義は制度の権威によってではなく、イスラーム学の業績の説得力にのみ支えられています。この意味においてイスラーム共同体は教会というよりも学界に似ています。

但し12イマーム派シーア派ウスーリー学派においては事情が若干違います。ウスーリー学派はシーア派信徒をムジュタヒド(イスラーム法独自解釈有権者)とムカッリド(追随者)に大別します。彼らの見解ではムカッリドは必ず一人のムジュタヒドに従わなくてはなりません。またムジュタヒドの中にもランクがあり最高位はアーヤト・アッラーフ・アル=ウズマーであり、次いでアーヤト・アッラーフ、フッジャ・アル=イスラーム・ワ・アル=ムスリミーン、次いでフッジャ・アル=イスラームとなります。

ウスーリー派は現代イランの公認教義であり、12イマーム派シーア派世界では大勢を占めていますので、現代のシーア派には、アーヤト・アッラーフ・アル=ウズマーを最終権威(マルジャア・アル=タクリード)とする位階制度が成立したと言って良いかもしれません。しかしこうした位階制度は20世紀になって生まれたもので歴史も浅く、偉大なカリスマであったホメイニー師の没後は、彼に匹敵するアーヤト・アッラーフ・アル=ウズマーが存在しないために、最終権威が決まらないという大きな問題を抱えており、将来にわたって存続する保証はありません。

イスラームには制度化された教義の決定機関がありませんので、「公認教団」という表現は不正確ですが、イスラーム世界には事実上「公認された」宗教結社であるあタリーカ(道)と呼ばれるスーフィー教団が存在します。スーフィー教団は導師と弟子のパーソナルな関係を基盤とする結社であり、カーディリー教団、シャーズィリー教団、ナクシュバンディー教団などの大教団無数に枝分かれしており正確な実態は分かりません。

スーフィー教団においては一般に霊的完成、救済は導師への服従によってのみ達成されるとされており、導師に対する絶対服従が要求され、教団員の間にも位階が設けられています。またスーフィー教団は、それぞれ独自の戒律、修行法を有し、教団員の中でも位階に応じて戒律が異なる場合もあります。

スーフィー教団は在家集団ですが、導師は教団の専従であるかイスラーム学者を兼ねる場合が多く、この意味でもスーフィー教団の導師は我々の抱く聖職者のイメージに近いと言えるかも知れません。

日本とイスラームの関係を教えてください。

イスラームは人類の始祖アーダムの教えです。預言者ムハンマドが説き明かした実定宗教としてのイスラームを狭義のイスラームと呼ぶなら、人類生誕以来の天啓の教えの全てを広義のイスラームを呼ぶことができます。

アッラーは、クルアーンの中で、「まことに我ら(アッラーフ)は全ての民族に、アッラーを崇拝し邪神を避けるようにと、使徒を遣わした・・・。」(16章36節)と仰せられています。

日本にも使徒が遣わされ、広義のイスラームが伝えれているはずです。

いるはずではありますが、残念ながら古事記や日本書紀といった現存する「神話」の中に「実証的」にイスラーム伝来の痕跡を見いだすことはできないようです。

勿論、古事記に現れる天御中主などの造化神たちが、・天照大神らの神統譜の神々と根本的に異なり、「生みも生まれもしない独神(ひとりがみ)」とされているのは、「言え。アッラーは独りなるお方、・・・生みも生まれもしない。」(クルアーン112章1,3節)を思い起こさせますが、いかせん相違の方が大きすぎます。

というわけで、預言者ムハンマド以降の狭義のイスラームについて述べるなら、日本とイスラームの関係は新しく、また浅い、と言わざるを得ません。

今日、正倉院御物として保存されている玻璃器などは、奈良時代にイスラーム世界から日本に伝えられたものとされますから、イスラーム世界の文物は8世紀には中国を経由して日本に伝わっていたことになります。

しかし人物の交流となると、元朝のフビライが日本に派遣した5人の使節の中に2人のムスリムがいたことが資料的に確認されます。ちなみにこの2人は時の執権北条時宗の命により、他の3人の使者と共に斬首刑され、これが第二次元寇、弘安の益の発端となりました。

その後も江戸時代にはユーロッパを介してイスラーム世界の事情が断片的に明らかになりつつありましたが、日本とイスラーム世界の真の交流が始まるのは明治以降です。

明治5年には後の外務大臣の林薫によって本邦初の預言者伝「馬哈黙伝」が出版されています。明治25年には山田寅次郎、有賀文八郎の二人がイスラームに入信していますが、これが日本人のイスラーム入信の嚆矢とされています。明治43年には山岡光太郎が日本人初のメッカ巡礼を果たします。

昭和に入ると、昭和6年には日本初のモスクが名古屋に建設され、次いで昭和10年には神戸、12年には東京にモスクが建てられ。また昭和8年に「イスラム学会」、11年に日本回教文化協会、13年には大日本回教協会が創立されるなど、多くのイスラーム関連団体が設立されますが、これらの団体の主目的は日本のアジア侵略の地ならしのためのイスラーム圏宣撫工作にあり、東京モスクの建設も黒竜会や玄洋社などの右翼団体の暗躍によるものでした。

戦後これらの団体が占領軍司令部によって解散させられたのち、イスラーム団体は学術団体と宗教団体に分かれて今日に至っていますが、前者の代表が社団法人「日本イスラム協会」であり、後者の代表が宗教法人「日本ムスリム協会」です。

戦後のイスラーム研究は、世界的意味論学者井筒俊彦のクルアーン、神秘主義研究を例外とし、主として歴史研究者の手によって担われてきました。日本の歴史家によるイスラーム研究は、西欧のイスラーム研究の背景にある「オリエンタリズム」への鋭い問題意識を特徴としています。それゆえ日本のイスラーム文明研究は、対象についての「客観的」知識の蓄積であるにとどまらず、イスラームを鏡とする西欧文明批判ともなっており、現代日本のアイデンティティーを問い直す契機をも宿しています。

一方で宗教としてのイスラームの研究に関しては、昭和12年に小林哲夫が参謀本部の奨学生日本人として初めて世界最古のイスラーム大学であるエジプトのアズハル大学に入学しています。日本人がイスラームを学ぶための留学先としては1960年代まではアズハル大学が独占的地位を占めていましたが、1970年代には折からの石油ブームをうけて、サウディアラビア、リビヤ、カタルなどのイスラーム諸学部への留学が増え、また近年ではイラン、トルコ、パキスタン、マレーシアなどでイスラーム学を学ぶケースも現れています。現在までに日本人のイスラーム関連学部の卒業生は10名を越えていますが、まだ伝統イスラーム学の免許皆伝を得たアーリム(イスラーム学者)は生まれていません。宗教としてのイスラームの理解のための今後の我々の課題は日本人のアーリム育成の知的、制度的土壌作りにあると言えましょう。

Q: イスラームには独自の教育制度がありますか?

A: 「知識(イルム)を求めることは男女全てのムスリムの義務である」預言者から伝わる有名なハディースです。このハディースは、知識こそがイスラームの基礎であるとのイスラームの立場を端的に表しています。

イスラームには信仰心を絶対化する心情倫理も、徒に肉体を苛む禁欲主義も無縁です。イスラームにおいては信仰も、修行も正しい知識に基いて初めて意味を持ちます。勿論、ここで言う知識(イルム)とは我々の考える「知識」とは若干異なり、第一義的には宗教的知識を意味しています。

しかし知識(イルム)が第一義的には宗教的知識であるということは、知識(イルム)が狭義の宗教的知識に限定されることを意味しません。全知全能の創造主アッラーフが人間に啓示された御言葉クルアーンは無限の意味の深みを有し、森羅万象の秘密を説き明かす鍵でもあります。それゆえイスラームの学問体系の中ではアラブ語学、法学、歴史学、数学、医学、天文学(占星術)、科学(錬金術)、心理学(神秘学)などの全ての学問がクルアーンの解釈に奉仕するものとして知識(イルム)の地位を与えられています。

そしてクルアーンはアッラーが天使ジブリール(ガブリエル)を介して預言者に教えられ、預言者は教友たちにその意味を教えました。人間に理解できる範囲でのクルアーンの完全な理解は預言者によって既に到達されています。後代の信徒に残された義務は、預言者が教友に伝えたことの正しい伝承にあります。それゆえイスラームでは知の系譜を非常に重んじることになりますが、イスラームの教育制度とは、最終的には預言者にまで溯る知の連鎖を意味します。

このイスラームの教育制度は、師匠と弟子のパーソナルな関係を基礎とし師匠が弟子に免許皆伝(イジャーザ)を与えそれが相伝されることによって成り立ちます。伝統的イスラーム教育は徹底した能力別の個人主義教育であり、修学年数は特に決まっていません。平均的には全課程を一通り修了するためには約20年を要し、更にその後同程度の教歴を積んで初めてに一人前のアーリムとして認められるようになります。

しかし西欧の植民地支配によるイスラームへの弾圧とその遺産である現代イスラーム世界の非イスラーム世俗主義諸政権による西欧式教育制度の強制により、イスラームの伝統的教育制度は破壊されました。

現在ではエジプトのアズハル・モスク、マッカの聖モスクなどで私的に行われている講義ではまだアーリム(イスラーム学者)による免許皆伝の授与の伝統が細々と残っているのを除けば、殆どの国では職業的イスラーム学者は世俗の大学と同一の単位・学位制度を有する大学・大学院の卒業生からリクルートされるようになり、学位のインフレが進んでおり、現在では 6-8 年の専門教育を受けた学部卒業生レベルでも慣習的にアーリムと呼ばれるようになっています。

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