別離の巡礼に関して
2巻 P.309-317
ジャウファル(注1)は彼の父ムハンマドの話をこう伝えている
私たちはジャービル・ビン・アブドッラーを訪問した。
彼は一緒に行った人々それぞれについて質問を始め、それが私の番になったので、「私はムハンマド・ビン・アリー・ビン・フサインです」と答えた。
すると彼は、彼の手を私の頭に置き、私の上衣の上のボタンと下のボタンを順に開いてから、彼の手のひらを(祝福するため)私の胸に当てた。
そして、当時私はまだ子供であったが、その私にむかい、彼は「私の兄弟の息子よ、よくぞこられた。知りたいことがあればなんでもたずねなさい」といった。
それで私は、質問を始めたのであるが、彼は盲目の身でもあり、すぐにそれに答えてくれるというわけにはいかなかった。
そのうち礼拝時間となった。
彼は織り布で躰を覆って立ち上ったが、その布の端を両肩にかけようとする度に、サイズが短かかったため、布は肩からずり落ちた。
別のより広い覆い布(リダー)は近くの衣類かけにかけられてあった。
(ともあれ)彼は、イマームとなって礼拝を行なった(注2)。
その後、私は彼に「アッラーのみ使いの巡礼について話してほしい」と頼んだ。
すると彼は、手で九の字を示してから、次のように語った。
「み使いは、マディーナに九年も滞在されながら、その間、巡礼を行わなかった。
十年目になってようやく巡礼を行うことを発表なさったため、大勢の人々がマディーナに集まってきて、み使いの巡礼に従うことを願った。
私たちはみ使いと共に出発し、ズール・フライファに到着した。
そこでウマイスの娘、アスマーウは、ムハンマド・ビン・アブー・バクルを出産したのであるが、この折、彼女はみ使いに使いを送り、『どうすべきでしょうか』と質問した。
み使いは彼女に対し沐浴して後、流血しないよう布で手当をしてからイフラームをまとうようにと指示された。
み使いはモスクで礼拝をなさり、その後、ご自分のラクダカスワーウに乗って出発なさった。
み使いを背に乗せたラクダはバイダーウで立ち止った。
その時、私の前方のみわたすかぎりは、ラクダや馬に乗った人と徒歩者たちであった。
私の右側も左側も彼方も同じ状況であった。
ともあれ、私たちと一緒におられるみ使いは、クルアーン啓示を受けられる卓絶したお方です。
そして、そのクルアーン啓示の真の意味を正しく理解なさるのはみ使いだけです。
それ故、私たちは彼の行為に準じてなんでも行ないました。
み使いはアッラーの唯一性(タウヒード)を讃えて、次のように唱えられた。
『ラッバイカ、あなたの近くに参りました。
おおアッラーよ、ラッバイカ、ラッバイカ、あなたに比べるべき存在はございません。
讃えられるべきはあなた。
慈悲深き方はあなた。
また権威もあなたのもの。
あなたに比ぶべき存在はございません!』
人々もまた、今でも唱えているように、このタルビーヤを唱えました。
み使いは人々の唱えるタルビーヤの文句に別の言葉が付加され変更されても、なにも否定なさらなかったが、ご自身のタルビーヤの言葉をずっとお唱えになっていた」(注3)。
ジャービルはつづけて語った。
「私たちはハッジ以外の意図は持っていなかったし、その時期にウムラを行なえるなどとは知らなかったのです。
私たちはみ使いと共に、カーバに着き、黒石に口づけ(イステスラーム)(注4)し、カーバ神殿のまわりを七回、そのうち三回は速歩で、四回は並み足でめぐるタワーフの行を終えてから、イブラーヒームの立ち処(マカーム・イブラーヒーム)に行った。
ここで、み使いは「そして、イブラーヒームの(礼拝に)立った所をあなた方の礼拝の場としなさい」(クルアーン第2章125節)という聖句をお読みになった。
この場所はみ使いとカーバ神殿の中間にあった。
私の父は(私は彼が預言者から直接きいて話したのかどうか知らないが、)預言者はこの場所での二ラカートの礼拝の折、クルアーンの純正の章(112章)と不信者たちの章(109章)をお読みになったとも語っている。
そして後、み使いは黒石の処に戻りそこに口づけをなさった。
み使いはこのあと、門を出てサファーの方に行きそこに近づいた時、クルアーンの言葉「本当にサファーとマルワは、アッラーのみ印の一部である」(第2章158節)をお唱えになり、
その後『私は、アッラーが私に命じたことを始めます』といわれた。
このあと先ず、サファーの丘に神殿がみえる処まで登り、キブラ《カーバの方向》にむかって、アッラーの唯一性と偉大さを讃える言葉を次のようにお唱えになった。
『アッラー以外に神は存在しません。
アッラーに比肩すべきものはありません。
アッラーこそ最高権威者、讃えらるべきお方、万能なお方であられる。
アッラーのみが唯一の存在で、アッラー以外に神は存在しません。
約束を果たし、信者を助け、徒党を組む者らを敗退せしめ給うお方であられる』
このような言葉を三度繰り返し唱えてから祈願なさった。
み使いは、このあとサファーを下り、マルワの方に進んだ。
そして谷の中ごろでは、走り、また、上りにさしかかると歩いてマルワの丘に到着なさった。
そして、ここマルワでみ使いは、『もし私が後になってわかったことを予め知っていたならば、私は犠牲動物を持参せず、ウムラを行なったであろう。
それ故、あなた方の中で、犠牲動物を持参しない者は、イフラームを脱ぎ、それをウムラを行なうためのものとしなさい』といわれた。
この時、スラーカ・ビン・マーリク・ビン・ジュシャム(注5)が立ち上って『み使い様、それはこの年だけですか。
それとも今後ずっとですか』といった。
み使いは、片手の指をもう一方の手の指にからみ合わせながら、『ウムラはハッジと合同して行なわれることになった。
しかも、今後ずっと、ずっと』と二度繰り返していわれた。
この頃、アリーが、イエメンから預言者のために犠牲動物を連れてやってきた。
アリーの妻ファーティマは、イフラームを脱いだ人々の一人で、色つきの布でつくった服を着、アンチモンをつけていたため、アリーは不満気の様子だったが、
ファーティマはこれに対し、『預言者である私の父がこうするよう命じたのです』と話していた。」
ジャービルは話をつづけた。
「アリーはイラクでこの時のことを次のように語っていた。
『私はみ使いの処に行き、ファーティマの行為に困惑していると話し、み使いがいわれたこと、彼女が述べていることについてみ使いの考えをたずねると同時に、私は彼女に立腹していますといった』
み使いは、これに対して『ファーティマの言葉通りです。ファーティマの言葉通りです』といわれただけであった。
そして、その後アリーにむかって、『あなたは巡礼を志した時、どのような祈願をしたのか』といわれた。
アリーは『おおアッラーよ。私はあなたのみ使いと同じ目的で、イフラームをまといます』と祈願したことを伝えた。
するとみ使いは『私は犠牲動物を伴ってきた。それ故、イフラームを脱がないで過しなさい』といわれた」
ジャービルは、話をつづけた。
「これら犠牲用の動物の総数は、イエメンからアリ-が持参したもの、み使いが持参なさったものを合わせると百頭ほどであった。
(ともあれ)預言者や犠牲動物を持つ者を除き、人々は全てイフラームを脱ぎ、髪の毛を少々切りとった。
そしてズール・ヒッジャ月八日タルウィーヤの日、彼らは(ハッジのためのイフラームを改めて身にまとい)ミナーの谷に行った(注6)。
み使いはラクダでミナーに到着し、午後、夕方、日没、夜それに夜明け前の礼拝をなさった。
夜明け前の礼拝後、太陽の上るまで少し待って後、(動物の毛を編んで作った)テントをナミラに張るようお命じになった(注7)。
そのあと、み使いはミナーを出発した。
クライシュ族の人々は、み使いが『マシャアル・ハラーム(神聖地域)』に休止なさるだろうと考えたが、これはクライシュ部族の者が、イスラーム以前の時代にいつもそうしたためであった。
しかし、み使いはそのままここを通りすぎ、アラファートに至った。
到着前に命じられたテントはすでにナミラに建てられてあった。
み使いは、ここで太陽が正午をすぎるまで過し、そのあと、ラクダカスワーウに鞍をおくようお命じになった。
その後、み使いはここの谷の中央に進み、人々に次のようにいわれた。
『まことにあなたの血、あなたの財産はあなた方のこの日、この月、この土地が神聖であるように、神聖にして犯すべからざるものです。
みなさい!
無明時代(ジャーヒリ-ヤ)のものは全て、私の足下で完全に廃止されます。
また、無明時代の血の復讐問題も同様に廃止されます。
“血の復讐”を廃止した最初のケースは、ラビーア・ビン・ハーリクの息子に関するものです。
彼はサアード部族の者に育てられたがフザイルによって殺されました。
無明時代の高利貸(リバー)も廃止されます。
私が廃止する高利貸の最初のケースは、アッバース・ビン・アブドル・ムッタリブに関するもので、それは全て廃止します。
女性に関してはアッラーを特に恐れなさい。
まことにあなた方は彼女らを、アッラーの保障の下に娶ったのであり(注8)、彼女らと性交渉を持つことも、アッラーのみ言葉によって合法として許されるに至ったのです。
あなた方は、また、彼女らを服属せしめる権利を持っています。
彼女らはあなた方の好まない者をあなた方の寝床に座ることを許してはならないのです(注9)。
もしも彼女らがそうした場合には、彼女らに体罰を科してもよいが、厳しすぎてはなりません。
あなた方が彼女らの権利に対して行うべきことは、適切を態度で彼女らに食物や衣服を提供することです。
私はあなた方にアッラーの聖典を残した。
もし、あなた方がそれをしっかり守るならば、決して迷うことはないでしょう。
さて、あなた方は(審判の日にアッラーに)私に関して質問を受けることだろうが、その時、あなた方はどのように答えるのですか』
これに対し人々は、『私たちはあなたがアッラーの教えを伝え、預言者としての役割を果し、真摯な助言を与えて下さったことを証言します』と答えた。
するとみ使いは、人指し指を、初め、天にむけて上げた。
その後、人々の方にむけながら、『おおアッラーよ、ご照覧あれ、おおアッラーよ、ご照覧あれ!』と三回繰り返して叫んだ。
その後、(ビラールが)礼拝を告げるアザーンを唱え、しばらくしてから、イカーマ《礼拝のための整列を告げる言葉》を唱えた。
み使いは、午後(ズフル)の礼拝を先導なさった後、つづけてまた、ビラールがイカーマを唱えると、夕刻(アスル)の礼拝を先導なさった。
ここではみ使いは、これら二つの礼拝を行なっただけでした(注10)。
み使いはその後、ウクーフ(滞在)の場所にむかい、雌ラクダカスワーウに乗って、岩山《ラフマ山》の近くに行かれた。
そこには、人々によってつくられた道路があった。
み使いは、ここでキブラにむかい、日没まで立ちつづけ、そして、円形の太陽が沈み、黄色い光線が幾らか消えだした頃、ウサーマを彼の背後に座らせ、カスワーウの鼻づなを頭が鞍に触れるほど強くひかれた。
その後、右手を示し、人々に静かに並み足で出発するようお命じになった。
み使いは、砂山を通りすぎる度に、ラクダの鼻づなを少しゆるめて学らせながら、ムズダリファに到着した。
ムズダリファでみ使いは、日没と夜の礼拝をアザーン一度とイカーマ二度唱えただけでおすませになった。
その間、義務とされていないこれら以外の礼拝は一切行なわれなかった。
ここでみ使いは夜明けまで休息なさり、その後、アザーンとイカーマを唱えさせてから、明け方の礼拝を行われ、朝の光が明るくなってから、再びカスワーウに乗って出発なさった。
マシャアル・ハラームでは、キブラをむいてアッラーに祈願し、“アッラーは偉大なり”と唱えて讃美し、更に、“アッラー以外に神はいない”と唱えて、アッラーが唯一絶対の存在であることを証言なさった。
その後は、明るさがはっきりするまでそこに立っておられた。
み使いは、太陽が昇る前にここを出発なさったが、この時、み使いの背後に座ったのはファドル・ビン・アッバースであった。
このファドルは、きれいな髪をもった色白の美しい顔つきの男だった。
み使い一行はどんどん先に進まれたが、女性の一群も、彼らと一緒に歩いていたため、ファドルは彼女らの方をしきりに眺めだした。
み使いは、手を彼の顔において彼の眼をさえぎろうとなさったが、ファドルは、顔を他の方向にむけて、女性たちの方を眺めることをやめなかった。
み使いは、手をそちらの方にむけ、また、ファドルの顔をおおわれたが、彼はまた別の方角に顔をむけて、女性らから目を離そうとしなかった。
そうこうするうちに、み使いは、ムハッシル(注11)の谷間にさしかかり、ここでは、カスワーウを少しばかり急がせた。
その後、石投げのための、最大の投石場(ジャムラトル・コブラー、又は、アカバ)に通ずる真中の道を通って、一本の木の側にあるそのジャムラ(投石場)に着かれた。
ここで彼は、アッラーフ・アクバル!(アッラーは偉大なり!)と唱えながら七個の小石を一つずつつかんでお投げになった。
これは、ミナーの谷の平地で行なわれる行事である(注12)。
このあと、み使いは、犠牲場所に行き自分の手で、六十三頭のラクダを屠殺してアッラーに捧げ(注13)、残りはアリーに命じて屠殺させた。
み使いは犠牲動物をアリーとお分けになったのである。
そのあと、み使いは、犠牲として屠殺された各動物の肉を調理なべに入れるよう指示され、その料理ができると、アリー共々肉をとって食べ、そのスープを飲まれた。
そのあと、み使いは再びラクダに乗って神殿に行き、マッカで午後の礼拝をなさった。
そして後、ザムザムの水を管理していたアブドル・ムッタリブ部族の者の処に行き、
『アブドル・ムッタリブ部族の者よ、水をくんで下さい!
もしも他の人々が、水をくんで供給する権利をあなた方から奪おうとしないならば、私はあなた方と共に、水をくみあげたいのです。
《私が水をくむと私のまねをして、人々は勝手に水をくみはじめ、あなた方の権利を犯すことになりますの意味》」といわれた。
彼らが桶をさし出したので、み使いはその中の水をお飲みになった」
(注1)ジャアファル・ビン・ムハンマド 四代目カリフ・アリーの息子フサインの子孫。
ジャアファル・サーデクの名で史上有名である。
イスラーム法に関する著書も多い。
90歳になるジャービルに会って話したのは、彼が14-5歳の頃であったという。
なお、ジャービルは預言者の教友として名高い人物で、晩年盲目となったが、94歳まで生きイスラーム暦74年に没した
(注2)このハディースは、盲人でもイマームとして礼拝を先導することができることを示している
(注3)人々が唱えたタルビーヤの語句は預言者のそれとは多少異なっている(タルビーヤの項参照)。
預言者はタルビーヤの語句に多少の変化が加えられても内容的に支障がないかぎりそれを黙認なさった。
(注4)黒石(ハジャル・アスワド)に口づけする行為は、イステスラームと呼ばれる。
通常タワーフやサアーイの行の前にこの黒石に口づけすることになっている
(注5)スラーカ・ビン・マーリクは、預言者がマッカから、アブー・バクルと共にマディーナに移った折、彼らを追跡し、捕えようとした人物である
(注6)ハッジの行はズール・ヒッジャ月八日の朝巡礼者がミナーの谷にむかうことから始まる。
イフラード(ハッジのみを目的とする方式)やキラーン(ハッジとウムラ両方を目的とする方式)を志した巡礼者は、イフラームを着けたままの状態でこの日まで過すのであるが、タマットゥ(ウムラの後通常生活に戻り改めてハッジにそなえる方式)の場合には、この日にイフラームを身につける。
ミナーには、九日の朝まで滞在することになっている。
(注7)巡礼者はズール・ヒッジャ月九日に神殿外の領域のアラファートに滞在(ウクーフ)することになっている。
クライシュ部族の者だけは、これに従わず神殿領城内にあたるムズダリファのある小山寄りのマシャアル・ハラームに、彼らの特権であるとして、とどまろうとしたのである。
預言者はこれを無視し定められた場所アラファートの平原にあるナミラの地にテントを張らせた
(注8)これらはイスラームが女性の権利を確証した言葉として有名である
(注9)妻は夫の意志を尊重し、それに添うよう努めるべきであるという教示である
(注10)巡礼中、アラファ-トでは、午後(ズフル)と夕方(アスル)の礼拝がつづけて行なわれる。
更に、ムズダリファでは日没(マグリブ)と夜(イシャー)の礼拝がつづけて行なわれるきまりである。
なお、スンナ(預言者の慣行にならった礼拝)やナワーフィル(自由意志による礼拝)は一切行なわれない
(注11)ムハッシル ムズダリファとミナーの間にある地名。
イスラーム以前、イエメンの将アブラハが象をひきいてマッカを攻撃しようとした折、滞在した処として有名である
(注12)ミナーの谷には、投石場は三ケ所あり、その最大なものはジャムラ・アカバ(アカバの投石場)または、ジャムラ・コブラー(大投石場)の名で知られる。
他は、ジャムラ・ウスター及びスグラーの名で呼ばれている。
このミナーにある三ヵ所の投石場で小石を投げる行事は、ハッジの重要な儀式とされ、ズール・ヒッジャ月10日には、ジャムラ・アカバ(または、コブラー)の一ヵ所だけで投石されるが、11日、12日、13日には、それぞれ三ヵ所において、投石されることになっている。
行事の起源はこのようにして悪魔を追い払ったイブラーヒームの故事に因んだものといわれる
(注13)六十三頭の犠牲動物を捧げたのは、預言者の年齢に合わせたもので、彼は生涯の一年分毎に一頭ずつ犠牲を捧げてアッラーへの感謝の思いを表わしたのである
ジャウハルは彼の父ムハンマドの話をこう伝えている
私は、ジャービル・ビン・ムハンマドの処に行って、アッラーのみ使いの(別離の)巡礼について質問した。
この後半は、前記ハディースと同内容であるが、次の言葉が付加されている。
「砂浜に住むアラブ人の中にアブー・サイヤーラという人がおり、鞍をつけてないろばに乗って(ムズダリファからミナーヘ)まだイスラームの教えを知らない人々を連れてきた。
アッラーのみ使いが、ムズダリファから、マシャアル・ハラームにむかって出発した時、クライシュ族の人たちは、み使いが必らずやそこにとどまって滞在場所とするに違いないと思った。
しかし、み使いはなんの注意も払わずそこを通りすぎてアラファに行き、ウクーフ(滞在)なさった」